画商の湯浅と田ノ上会長が、ここを訪れたのは10月24日。
黒塗の高級車が4台。多数の取り巻きと共にやって来た。
現場監督が昼飯を食べた終えた直後だから、午後1時頃。
急な視察で、建設会社の責任者は不在だった。
そのため、内装工事の現場監督である「自分」が応対した。
「見事なエントランスで…」
建物の玄関で、画商が感嘆の声を上げた。
「私も色々見てまいりましたが、これほどの施設は初めてでございます」
「あはは。社員研修だけでなく、財界の会議所としても使うつもりだよ」
田ノ上会長はゴキゲンであった。
「場所も最高ですね。サミットも行えるでしょう」
画商のお世辞が続いた。
「あははは。サミットとは言い過ぎだよ」
「とんでもございません。私も仕事柄、国会議員の先生方とは親しく」
「国際会議ができる、立派な施設だと宣伝しておきます」
「そんなことを言われると、3億でなく、5億で購入しなくては」
田ノ上会長は、さらに上機嫌となった。
「バブルの頃なら10億でも入手できなかった絵です。よい買いものをしました」
「あははは。ところで、絵の方は何時頃届くかね?」
田ノ上会長が画商に尋ねた。
「いつでもよろしゅうございます。ただ、工事中に運び込むのは…」
「万に1つ、傷が付くようなことがあれば、後悔しても後悔しきれません。すべて終わってからが、よろしいかと」
一通り視察を終えたあと、少し変った話題になった。
「ところで、大阪の状況はどうなっている?」
田ノ上会長がそう切り出した。
「不景気で、どうしようもありません」
「景気の話ではなく、知事選のほうだ。木下君はどうかね?」
腕時計で時間を確認しながら、田ノ上会長が画商に尋ねた。
「七洋電子機械の木下藤吉郎を、御存知で?」
「木下君のパーティに呼ばれている。今夜、何時からだった?」
うしろを振り返り、取り巻きに尋ねた。
「名古屋サイド・インホテル。午後7時からです」
「中京総合ツーリストの植芝君に紹介されてね」
「木下藤吉郎(とうきちろう)と書いて、きのしたふじお、と読む。覚えやすい名前だ」
田ノ上会長は、引き続き上機嫌であった。
木下藤吉郎(とうきちろう)は、織田信長に小者として仕えた頃の、豊臣秀吉の名前である。
「そうですね」
画商の相槌のような返事であった。
「名古屋と大阪を1つにして、東京に対抗する。口ぐせのように言っていた」
「名古屋と大阪を合わせたら、経済圏人口は4千万人。確かに東京と互角だ。うん」
「知事選の状況は、どうなっている?」
田ノ上会長が再び尋ねた。
「さっぱり、わかりません。大阪の場合、政策より知名度です。人気があれば、誰でも知事になれます」
画商がそう応えた。
「あ、はははは」
田ノ上会長が大笑いを始めた。
誰でも知事になれるという言葉が、笑いのツボを突いたようである。
「おっと、そろそろ会社に」
田ノ上会長がしばらく笑った後、呟いた。
「今夜のパーティ、あなたもどうかね?」
「大阪に用時がありまして」
画商は丁重に断った。
その後、画商と田ノ上会長は車に乗り込み、建設中の研修所を去った。
この話を聞き出したあと、岩田は名古屋へ向かった。
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